内科(総合内科)・消化器内科
胃腸内科・循環器内科
群馬県桐生市本町4-314
TEL:0277-22-7777


藤江醫院の歴史

東嶄堂 藤江医院(1972年12月記)

本町四丁目にある藤江医院は往時は東嶄堂といって、わが郷土で稀にみる、連綿数代に渉る開業医で、上岡の建物は現院長敏雄先生の祖父にあたる故藤江良作先生の代に建築されたものである。

藤江良作先生は当時の桐生新町四丁目の人、文久二年(1862)のお生れで、その先祖は旧相生村天沼新田に住し代々医を業とした。

藤江家は良作先生の祖父周貞氏の代に桐生新町に移り、その子周作氏を経て良作先生となったのである。藤江良作先生は資性動勉志を立てて東都に遊学、21才で東京大学予備門を卒業、次いで東京帝国大学に進み、明治二十一年十一月医科を卒業、郷里に帰って開業医となった。時に年26才である。当時教育学問の十分に開けなかった時代において、新進の医学土としてその医名郷堂に名高く、桐生界限で藤江先生の診断を受けることができれば死んでも悔いはないとたたえられた。

したがって官公衛学校等、医事衛生に関する人事のあった場合には元づ嘱託の指定を受けた。明治二十八年の桐生町の伝染病院医、同二十九年の群馬地万衛生委員、同三十一年山田郡検疫委員、同三十四年桐生町伝染病予防委員、同四十年鉄道院鉄道医、同四十一年山田郡立桐生高等女学校医、大正二年群馬県指定医、同五年桐生高等工業学枚医、同十五年群馬県健康保険審査員等は皆その例である。更に明冶四十三年桐生産婆看護婦学校の設立されるや講師嘱託、後学校長に推選された。

氏はこの外与望を担って明治四十四年より引続き町会議員、市制施行後第一回の市会議員に当選、自治行政にも参与し、貢献すこぶる多大で桐生市功労者として表彰されたのは、先生の学徳によるものであり昭和九年四月73才で永眠された。先生の嗣子は守四郎氏で現院長敏雄氏はその長男であり、人格温厚桐生市医師会長として各方面に活躍されている。

いまこの古き西洋館の建物を描くに当り筆者は、亡き大先生を偲び、筆者も兄や弟も先生には一方ならずお世話になり聴診器を胸にあてられた少年の日の思い出がよみがえって来るのである。また先生は和服を好み常に白足袋をはかれておったのは有名な話であり、往診には人力車に乗られおかかえの車夫がお供をしたのである。図中正門左側は人力車の格納する所である。(1972年12月記)

藤江家系図(略)